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February 27, 2016

Wikipediaの「写真」の項目にある解説は恐ろしく時代遅れだ

僕は雑学の拠り所としてWikipediaをこよなく愛してきた。

ところが、この編者たちは、恐ろしくジジイなのか、無知なのか、書かれた時期が古いのかわからないが、少なくとも「写真」と「版画」に関する日本語版の解説は古臭い。20世紀であればそうであったかもしれないが、少なくとも2016年2月においてwikiの解説を評価すれば、「ダメ」だ。

この怒りの根拠の原因は、先週末知人と会話して知った事実・・・版画の世界では既に写真を版画として認めている・・・ただし、条件付きで、「露出に関するパラメーターの調整のみ」のような面妖なまるで、「ドーピング検査」のようなルールが付帯するものの、写真は版画としての市民権を得つつあることを知ってからだ。

まあ、知人はPSの超エキスパートなので、僕が解像力を誤って設定したら4ギガを超えるファイルを作ってしまって、PSDにもTIFFにも保存できず、長時間かけて、jpeg(これも多分500MBぐらいに天井が有る)に変換すののに20-30分もかけてしまったという事を話したところ、知人はそんなことは年がら年中起こっているというので、驚いた。

WACONの何と云うのかしらないが、マウスの代わりに成るタブレットを調達した。届いて仰天したのだが、箱の面積がA3ぐらいあって、とてもではないけど、現在のPCキーボードの前に置く場所が無い。知人仲間で使っている人もいる。

いずれにしても、PCは現代の絵筆であり、これをデジタルアートとして、レガシーアートと差別する理由があるとすれば、それが版画であるというこでしかない。

僕が知人から聞いた限りで、再現性のある表現は版画として定義できそうだ・・・。
これが新潮流なのかどうかは知らないが、その潮流には非常に、とても大きな関心を持った。

写真のアートとしての価値はさほど高くない。だから、写真は比較的安くてもオリジナルが手に入れられる。これは、リトグラフなどの版画が安いことに似ている。つまり、再現性のある、特に写真には超再現性、デジタルの場合は原理的に無限の再現性がある・・・これが安い事と密接に関連している。

版画作家が鉛筆で余白サインをいれることは有名だが、写真で、同じことをする。前田真三さんの鉛筆サインの作品を複数手に入れて確信した。
つまり、写真は巧妙にコピーする技術はあるが、鉛筆のサインを鉛筆という素材をつかってこびすーことはまず困難であるので、真贋判定しやすい・・・ということが原因ではないか。大概の版画の鉛筆サインとシリアルnoは非常に合理的だ。

このロジックで版画ではない写真は唯一、ダゲレオタイプだけだ。・・・いやいやポジ写真は違うだろうなんていうのは、既に雑音の価値もない。

一方、Wikipedaの「版画」の項でも、其の説明の中で写真が版画だとは一切触れられていない。これも古い。

今日的には版画とは再現性がある美術表現について定義して良いのではないか・・・。まあ、どうでも良いけど、それでセクトを作るとか、そういう惨めな垣根根性を出さないでほしいという・・・・マックスウエーバー的に言えば、一「マージナルマン」の嘆きを書いた次第だ。

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